宮城県では、震災で両親を失った子ども139人(※宮城県によるデータ)のうち約6割が里親制度のもとで養育されることになりました。里親となったのは、ほとんどが祖父母やおじ・おばなどの親族です。
「震災で里親になるというのは極めて特殊な体験です。誰とでも話せることじゃなく、理解し合える相手もいない。里親同士、気持ちを共有し合える場が必要でした」。
里親会である宮城県「なごみの会」の卜蔵(ぼくら)康行さんは、そのように当時をふり返ります。「なごみの会」は県の委託を受けて2012年3月に里親支援事業を開始。東北大学震災子ども支援室の協力を得ながら石巻・東松島・気仙沼の3カ所で「親族里親サロン」を開催してきました。
里親は、自身の喪失感と震災体験の痛みに向き合いながら、孤児となった子と一緒に暮らす道を選びました。子ども(孫)とは元々三世代同居だったので違和感がないという人、親族で話し合って引き取ることになった人など、その"親子"関係は様々です。
サロンに参加した里親たちは、里親になって生じた生活の変化への戸惑いや高齢で再び子育てを始める不安、母親の死亡を孫に伝えられずにいることなど、それぞれの気持ちを語り合いました。
最初は子育ての悩みを共有する場だったサロンですが、卜蔵さんは「サロンに参加しているご家庭を見ていると、6年経って大分子どもとの関係が安定してきているのが分かります」と話します。
それでも高齢の里親のなかには、病気など健康上の問題や経済的な不安を抱えながら子どもを養育している人もいます。また、思春期を迎えた子をうまく育てられるか、子どもが社会に出ていくまで自分たちが元気でいられるだろうかと心配する人も多くいます。
里親を支援する活動は、2017年、みやぎ里親支援センター「けやき」(※)に移行しました。センター長でもある卜蔵さんは忘れないことが課題と言います。「里親さんたちに"皆さんのことをいつも忘れずにいる者がいる"ことを知っておいてほしいので、参加者がゼロになるまでサロンは続けます」。
震災で里親になった家庭と気持ちを通わせながら、卜蔵さんたちの活動は今後も続きます。
※ みやぎ里親支援センター「けやき」は2017年1月発足。県の委託を受け、宮城県「なごみの会」と社会福祉法人キリスト教育児院が共同で里親を支援しています。
※ みやぎ里親支援センター「けやき」のHPはこちら
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第50回はこちら
]]>震災は、障がい者が通う事業所にも大きな傷跡を残しました。
みやぎセルプ協働受注センターは、就労支援事業所で働く障がい者の工賃向上を目的に様々な支援活動を行なう団体です。同センターの武井博道さんは「沿岸部にある障がい者就労支援事業所は、働いていた施設が津波で流されたり、建物は無事でも取引先が被災したために受託していた作業を失うなど、それぞれに厳しい現実に直面した」と当時をふり返ります。
事業を継続できなければ、月平均約1万9千円の1人当たり工賃(※1)さえ確保が難しいだけでなく、利用者が励みとしている社会参加の機会も奪ってしまいます。同センターは、被災事業所と被災地を支援したい企業をつないで新しい販路づくりを支援するとともに、販売イベントなどを通して各事業所の再建に奔走しました。
NPO法人みどり会みどり工房若林(※3)は、仙台市の荒浜にあった施設と農地を津波で流失しました。3カ月後、街なかのビルに移転しましたが、荒浜にいた頃のような農作業はできなくなりました。
「利用者さんは、商品の製作を通して自分も社会に貢献できているという思いが強いので、作業が無いのは本人も辛い。すぐに作業をつくらなければと思い、以前からやっていた手芸を始めました」と工房管理者の今野真理子さん。それぞれの障がい特性や心身のコンディションに合わせた作業プログラムを組み立てて、ピアノモチーフの雑貨シリーズ「ショパンチ」に特化した商品づくりを進めました。
ことし4月には、より利用者のためになるようにと就労継続支援B型事業所(※2)に移行。「今、困っているのは作業スペースが狭いこと。心が落ち着く場所の確保などは利用者さんの病状と直結する課題であり、次の展開を模索しているのですが、現状はうまくいきません」と話します。
他にも資金難などで施設を再建できず、今も仮の建物を拠点にしている事業所が数カ所あり、復興とはほど遠い実態が垣間見えます。利用者が働きやすく、より高い工賃を得られる環境をつくるために、関係者の努力はこれからも続きます。
※1 宮城県内の就労継続支援B型事業所で働く障がい者の平均工賃(2015年度)。
※2 雇用契約を結ばずに就労の機会を提供し、一般就労に向けて知識と能力の向上に必要な訓練などを行なう事業所。
※3 NPO法人みどり会のHPはこちら
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第49回はこちら
]]>高齢や障がい、病気などで歩行が難しく、"自力では行きたいところに行けない"人たちを移動困難者と言います。
どの地域にもいる移動困難者が、いちどきにたくさん、極限の状態で出現したのが6年前の震災でした。
以前から移動に困難を抱えていた人は震災でより状況が悪化しました。震災前は車で移動していた人も、車を流失して免許を返納したり、家族と生活を分けたために送迎してもらえなくなったりして、通院や買い物が難しくなりました。
また避難生活が長期化するなかで心身が弱り、外出の機会が減るなどの条件が重なって介護度があがるという悪循環も生まれました。
「移動支援Rera(レラ)」は、石巻エリアの移動困難者を対象に送迎支援を行なっているNPO法人です。利用者は1日平均延べ70人、年間で約2万人。約9割が通院目的で、利用者からは「レラさんのおかげで病院に行ける事がありがたい」「レラがないと寝たきりになると思う」などの声が寄せられています。
Rera代表の村島弘子さんは「自立生活を何とか維持できていて、これからも維持したいから移動を手伝ってほしいという方が多い。外出を止めれば介護度が上がるのに、その外出に対する支援が空白になっている」と話します。障がい認定を受けている場合など行政からタクシー券の支給はありますが、利用限度額は決して十分とは言えません。「"親の通院にかかるタクシー代を払いきれない。自分が送迎するため離職したら収入が断たれる"。そんな切羽詰まった相談もあります」。
Reraが活動を始めて6年5カ月。「仮設住宅が解消されたら活動に区切りをつけようと考えたこともあるのですが、いま止めると"生きていくのが大変な人たち"がますます困窮すると思い、続ける決意をしました」。
被災地ではいま新しいまちづくりが進んでいますが、移動困難者の存在は復興の陰に隠れて見逃されがちです。移動困難者の生き辛さに気付き、"公助"はもとより、地域での"共助"をどうつくっていくかが問われています。
※NPO法人ReraのHPはこちら
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第48回はこちら
]]>女川駅から車で約15分、海を望む高白浜の集落に、一般社団法人「コミュニティスペースうみねこ」が運営するカフェと農園があります。震災で人口は減少しましたが、イチジク栽培など地元には無かった事業に挑む「うみねこ」に魅力を見出した人たちが、町内外から働きに来ています。
始まりは、高白浜に住む八木純子さん(うみねこ代表)が、被災した高齢者の心を癒すため集落の女性たちと一緒に布草履を作ったことでした。さらに漁業を辞めた男性たちが農業で生きがいを取り戻せるようにと果樹栽培を始め、ボランティアや住民が集う「果樹園Cafeゆめハウス」で地場の食材を使ったランチを提供するようになりました。活動を続けるうち、うみねこの夢に共感して働きに来る若い世代が増え、イチジクを使ったお茶やスイーツ、唐辛子粉の製造販売など事業の幅も広がりました。
「女性の働く場所や若い人たちがやりたいと思う事業をつくり出していくことが大事だと思っている」と八木さん。そのため「今はスタッフの夢を叶えることに全力投球している」と言います。
常に活動のずっと先を見ている八木さんですが、心無い言葉を耳にした時など、何かの拍子に一瞬で6年前の3月11日に引き戻されることがあります。「あの時の様子がパッと甦り、やはりトラウマになって抜け出せないんだと再認識させられる。みんなの笑顔を見たくて続けている活動だけど、毎日葛藤のなかを生きている」と胸の底にある思いを口にします。「被災者はあの時の光景を見ている。ようやく生きて海から上がってきた人も、そこで息絶えてしまった人も見ている。だからこそ"復興"以上の楽しさを提供していきたいと思っているんです」。
事業はそのための手段と八木さんは言います。「ワクワクしたり、やって良かったと喜び合ったり、自分たちだからここまで頑張れるとか、一生懸命作るから喜んでもらえるとか、そういうやりがいを大事にしたい」。
辛いこと以上に楽しいことが多かったと言える日を、自分たちでつくり出していこう。うみねこの活動にはそんな気概があふれています。
◎一般社団法人「コミュニティスペースうみねこ」 https://www.onagawa-umineko.com/
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第47回はこちら
]]>牡鹿半島はほぼ全域が山地で、漁港や集落の多くはリアス式海岸の入り江にあります。
震災は半島で暮らす人たちの生活を一変させました。人口は約4,300人から約2,500人に減少(※)。「過疎化が一気に進んだ」と、牡鹿半島でお茶っこや食事会の送迎サービス付きサロン活動を実施している「おらほの家プロジェクト」代表管理人の本庄年さんは言います。
長い避難生活のなか、若い世代は街に移住し高齢者は故郷に戻る形で世帯分離が進みました。集落も、家が残ってそのまま住み続けている人と家を失って高台に移転する人に分かれました。さらに世帯減少と独居高齢者の増加で、住民の交流が以前より少なくなりました。復興は進んでいますが、坂道が多く、バスも不便で、隣りの集落に行くにも通院にも、車を運転できる人の助けが要ります。
サロンの日、本庄さんたちは参加者のいる集落を送迎車で回り、清水田浜の「おらほの家」に案内します。お茶っこではお喋りや手芸に興じ、食事会では調理・食事・片付けを全員で行ないます。「一人暮らしだからみんなとお喋りできるのが嬉しい」「この辺りは気晴らしに出かける所が少ないのでサロンが楽しみ」と、参加者は満足して帰っていきます。
本庄さんたちはいま、ボランティアの減少や高台移転による集落再編に対応し、少人数スタッフでの運営、集落ごとの小規模お茶っこなど、サロン活動の見直しを図っています。
課題はやはり人手と送迎です。「高齢者の体調を見ながらの活動でもあるので、もう少しボランティアの手を借りたい。集落ごとのお茶っこは地域住民の手で行なうのが理想ですが、送迎がないと参加者が限られる。そのフォローも考えていかなければなりません」。
地元に温かい交流が残っているから、住み続ける、移住しても時おり帰ってくるという人は少なくありません。おらほの家プロジェクトのように、人と人の温かい交流をつくる取り組みが、これからも望まれています。
●「おらほの家プロジェクト」 https://oraho-oshika.jimdo.com/
※「平成27年国勢調査による石巻市の人口・世帯数」(石巻市)
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第46回はこちら
]]>宮城県沿岸の漁港142ヶ所はすべて震災で甚大な被害を受けました。とくに漁港と集落が一体となった地域は生業だけでなく暮らしの基盤も失い、住民離散による故郷消滅の危機にも見舞われました。
南三陸町戸倉は、リアス式海岸沿いに水戸辺、波伝谷などの集落と中小の漁港が点在する地区です。震災で漁港も養殖設備も壊れ、多くの漁業者が船と家屋を失いました。
その戸倉地区に2年前、新鮮な海の幸や山の幸を提供する「感謝祭」の開催とオリジナルの商品づくりに取り組む漁業者のグループが誕生しました。「戸倉漁師の会」です。
会長の松岡孝一さんは「震災を経て戸倉の漁師たちの結束はより強くなった」と言います。戸倉には、同じ町内の志津川や歌津のように人が集まる商店街も復興市もありませんでした。そこで全国から寄せられた支援への感謝を込めて、月1回、第2日曜日に波伝谷漁港で"海あり、山あり、美味いもんあり"の「戸倉漁師の会 感謝祭」を行なうことにしたのです。感謝祭は今年の5月で15回を数えます。毎回、石巻や仙台からの観光客はもちろん、他の町へ移住した人たちも戻ってきて、故郷の賑わいを体験していきます。
また漁業の6次産業化を目指し、カキを酒粕で漬けた「ほろ酔い牡蠣」やヒジキのシバ漬けなど新たな商品開発にも挑んでいます。
震災から6年、高台への集団移転が終わり、港湾施設の復旧も進みました。一方、ホヤが輸出できずカキも思ったほど価格が上がらない、後継者が不足しているなど、まだ苦労は続きます。
「漁師の会のメンバーは現在10数名。戸倉には100人前後の漁業者がいる。イベント会場などの課題はあるが仲間を増やしていきたい」と松岡さん。「海に出られなくなった年配の漁師を、仲間の若い漁師が手伝うことができる」と期待します。村岡賢一さんも「楽しみながら仕事ができるような仲間づくり、地域づくりが大事」と話します。
「漁業も暮らしも、本当に大変なのはこれから」と松岡さんが言うように、被災地の復興はまさにこれからが正念場です。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第45回はこちら
]]>防災集団移転地や復興公営住宅は、震災で家と故郷を失った人たちの生活再生の場所です。
東松島市あおい地区は580世帯、約1800人が暮らす防災集団移転地です。大曲浜や野蒜(のびる)など様々な地域から移転した人たちが「日本一のまち」を目指し、コミュニティ活動を進めています。
同地区会会長の小野竹一さんは、「日本一のまち」の意味を「子孫に喜ばれるまち、亡くなった方の魂が帰ってこれるまち、支援してくださった全国の皆さんに"見に来てください"と言えるまち」と話します。そのため2012年からまちづくり整備協議会を立ち上げ、特色ある公園や集会所の建設、ペットとの共生などを実現してきました。
協議会の役員は、地域の仕来り(しきたり)やルールなど様々な声を反映できるよう、以前住んでいた各行政区から必ず1人は選出するようにしました。1丁目・2丁目・3丁目の区割りは、高齢化率を踏まえ、復興公営住宅と自力再建地区の組み合わせにしました。自力再建地区に多い若い世代が、復興公営住宅に多い高齢者と一緒に自治会活動を行なうことで自然な見守りができると考えたからです。
また、あおい地区会として「見守り部会」を設け、お茶会や訪問見守りなど高齢者の状態に応じたサポートを行なうことにしました。高齢者の健康維持のために「あおい農園」設置の計画もあります。
小野さんは東松島市に「住民による高齢者支援を地区会に業務委託してほしい」と要望しています。「NPO等が委託を受けて活動している例もあるが、いつかは撤退する。支援のノウハウも地元に残らない。見守りは介護予防、ひいては行政のコスト削減につながるし、業務委託は自治会の活力にもなる。市と社会福祉協議会、あおい地区会の三位一体の取り組みができれば」と話します。
防災集団移転による新しいまちづくりは、どこも始まったばかり。あおい地区と同様に多様な課題を一つ一つ乗り越えていかなければなりません。自治会の担い手がいるか、行政とうまく連携できるか、交流や支え合いをどう生み出していくか。失った故郷に変わる新しい故郷をつくるための取り組みが続きます。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第43回はこちら
]]>「災害公営住宅の自治会活動には、既存の自治会、地域のお世話役、NPOなど"人を支える杖"があることが大事です」。気仙沼市社会福祉協議会ボランティアセンターの皆さんがそう言って例に挙げたのが、南郷三区自治会です。南郷三区自治会設立には、南郷地区に元々あった自治会組織の協力がありました。住民同士のお茶会をきっかけに高齢者のサロンも生まれています。
藤原武寛さん(南郷三区自治会会長)は住宅内を"支える杖"の一人です。
「入居者の6割近くが65歳以上の高齢者。自治会では高齢者の孤立防止と住民同士の交流のため、月1回イベントを開催していますが健康上の理由や気持ちの問題で参加しない方もいます」。
藤原さんは時間を見つけてはそうした住民のもとを訪問するようにしています。「足を向けると2時間でも3時間でも話し続ける。悩みや困り事を誰かに聴いてほしくて、待っているんです」。また各フロアの班長さんたちは、郵便物や新聞が溜まったままの家がないかどうか、気を付けて見るようにしています。
住民同士のつながりは徐々に深まりつつありますが、新たな課題も浮上してきています。
「重いストレスを抱えた方や震災と避難のショックで精神的に参っている方が増えているような気がします」。今年の3月11日で震災発生から6年が経ちますが、実際の復興に心が追いついていない人は、まだ大勢いるのです。「深夜の大声や騒音などのトラブルも発生している。今後は家賃の被災者特例が無くなることで経済的に困窮する世帯も出てくるでしょうから、それも心配です」。
やっと落ち着く場所を手に入れた人たちが、そこで安心して暮らし続けていくためにどんな支えが必要か、これからも考えていかなければなりません。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第42回はこちら
]]>宮城県では1,066人の子どもが震災で親を亡くしました(※宮城県「本県の震災遺児・孤児の状況」、平成28年7月31日現在)。津波の後で親の死を知った時の絶望、未だ行方不明の親を想う辛さは、想像に余りあります。
あしなが育英会は2014年、東日本大震災で親を亡くした子どもとその家族が集う「レインボーハウス」を仙台、石巻、陸前高田に開設しました。
レインボーハウスは阪神・淡路大震災をきっかけに誕生した心のケアの活動拠点です。東日本大震災が起きた時、若宮紀章さん(あしなが育英会東北事務所)は「東北にもすぐレインボーハウスが必要になる」と思ったそうです。
石巻レインボーハウスの開設準備中、こんなことがありました。どんな施設を建てたいか、子どもたちに工作で表現してもらったところ、母を亡くした小学1年生の子が部屋の片隅にお墓を作ったのです。お墓の中には紙の人形が入っていました。
「その子なりの感情表現だったのだと思う。亡くなった家族の話は学校でも家庭でも話しにくい。成長とともに自分の気持ちを言葉で表現できるようになるが、神戸の震災で親を亡くした子たちは"今も簡単には言えない複雑な感情がある"と口にする。東北の子たちも同じ辛さを抱えるだろう。それだけに長いスパンでの寄り添いが大事だ」と若宮さんは言います。
また「心の内側は6年前の3月11日からあまり変わっていないんじゃないか」と感じる時もあるそうです。「"変わってない"部分は、繊細で複雑で困難なことが多い」と言います。それを吐き出すことなく内に溜めていけば、心は疲弊する一方でしょう。「レインボーハウスで同じように家族を亡くした人たちと語り合い、自分の気持ちを表現することで前に進むきっかけを見出す。そのお手伝いができれば」というのがレインボーハウスに携わる人たちの共通の思いです。
震災遺児・孤児を支援するため行政をはじめ各支援団体がさまざまな活動を行なっています。レインボーハウスはその一角を担うものですが県内の震災遺児・孤児すべてとつながるのは困難です。子どもが望めばいつも手が差し伸べられる環境をつくるのは大人の責任です。そのために何ができるか、これからも考えていかなければなりません。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第41回はこちら
]]>「子どもなのに"震災だから"とじっと我慢していた。みんな"いい子"なのが逆に心配」。あるお母さんの言葉です。狭くて十分な勉強場所がない仮設住宅、自由に部活ができない校庭、下校時間が決まっているスクールバス通学など、子どもたちは様々なストレスを抱えながら、この6年を過ごしてきました。
宮城県女川町にあるコラボ・スクール「女川向学館(以下向学館)」は、認定NPO法人カタリバが「子どもたちに震災のせいで夢をあきらめてほしくない」との思いから、地域の協力を得て始めた放課後学校です。下校後、子どもたちが落ち着いて勉強ができる「学びの場」と安心して集まれる「居場所」を提供しようと、2011年7月に開校しました。
向学館の多田有沙さんは「女川は小学校も中学校も一つしかない小さな町。学校の成績が悪いだけで"自分は勉強ができない"と思い込んでしまう子が多い」と言います。向学館は、対話を重視したプログラムで、そうした子どもたちのヤル気と自己肯定感を引き出し、"自分も頑張れる"と自信を持って勉強に取り組めるよう指導しています。しかしなかには"頑張れない子ども"もいます。「違いは夢や目標を持っているかどうかです」と多田さん。将来自分は何になるのか、学んだことを将来どう活かすのかー。向学館では、子どもたち自身が自分と将来について考えるキャリア教育にも取り組んでいます。
子どもたちは向学館で勉強するだけでなく友だちとお喋りにも興じます。スタッフに悩み事を話すこともあります。まさに子どもたちが安心して集まれる「居場所」がそこにはあるのです。
震災は子どもたちから多くのものを奪いました。それでも子どもたちはたくさんの人の支援に背中を押され、自分の道を拓いてきました。
向学館はいま、自発的に勉強や調べものができる部屋を設けようと準備しています。「本やパソコンを使って自ら興味関心の幅を広げる、そんな居場所を自分たちの手でつくっていってほしい」と多田さんは期待を寄せます。子どもたちがこの場所で、震災の悲しみを強さに変える力を培っていけたらとの願いも込められています。
被災地では多くの大人が添え木となって子どもたちを支えていくことが、これからも求められています。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第40回はこちら
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