「自分で選び、自分たちの手で解決する」石巻復興支援ネットワークやっぺす!
震災は、地元の女性たちが元々感じていた子育てのしづらさや就労の難しさに拍車をかけました。被災による心の傷がそこに加わり、回復をより難しくしました。
「自分の足で立ち上がるには、成功体験を積み、生きがいと仕事を取り戻していかなければ」と石巻復興支援ネットワークやっぺす!(以下やっぺす)の兼子佳恵さんは、震災直後、支援活動に携わるなかで痛切にそう感じました。
2011年5月NPO法人としてスタートしたやっぺすは、内職希望者と企業をつないだり、石巻発のアクセサリーのブランドを立ち上げながら、子育てしながら就労を目指す女性のためのスクールを開講しました。また、復旧・復興とともに変化する地域のニーズにあわせ、女性の起業支援スクール、孤立しがちな母親をサポートするスクール、女性たちの交流・学びの場となるカフェ開設など、数々の女性応援プロジェクトを展開してきました。さらに地元の人たちが趣味特技を活かして自己表現するプロジェクトをつくり、失われた自信を取り戻せるよう支援しました。17年からは貧困家庭やワンオペ育児で大変な思いをしている母親たちのためにママ子ども食堂も実施しています。
活動を始めて7年半。石巻エリアには、やっぺすの支援に背中を押されて自分の道を選んだ女性たちが何人もいます。「女性は、自分の人生なのに他者から"結婚しなさい、子どもを産みなさい"と指図を受けることが多い。でもそれでは楽しくないし、悔いも残る。私はやっぺすの活動から、人生で色々選択を迫られた時に、きちんと自分の判断で選択できる女性を送り出したいと思ったんです」。
それは、やっぺすが当初から掲げていた「主体的に地域づくりに関わる人材育成」という目標にもつながっています。「何年か先と思っていた地域課題が、震災で一気に噴出した。石巻に元々あった課題なのだから、住民が自分たちの手で解決していかないといけない。そのためには人材育成が急務だと思い、取り組んできた」と兼子さんは振り返ります。
18年10月、やっぺすは事務所を移転しました。新事務所には商品展示スペースやイベント・セミナーを開催できる大・小のホールなど様々な機能が集約されています。「つながることで生きがいが生まれ、生きがいが生業になり、生業がきちんとビジネスになっていく。それが循環する拠点にしていきたい」。
石巻の街が住民の手でより良い方へ変わっていく。その担い手を育て、支えていくために、やっぺすの活動は続きます。
※石巻復興支援ネットワークやっぺす!のHPはこちら
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第62回はこちら
]]>2012年に仮設商店街として営業を始め、昨年、場所を移転し本設商店街として新たなスタートを切った南三陸さんさん商店街(志津川地区)。オープンから1年5カ月目の2018年8月、来場者が100万人を突破しました。本設移転の前に抱いていた様々な不安をかき消すかのように、商店街には晴れやかな気分が広がっています。
㈱南三陸まちづくり未来(以下まちづくり未来)の菊地眞人常務は、「たくさんのメディアが取材に来て伝えてくれた。さらに震災直後から支援してくださっていた方々が友人や親せきを連れて来たり、中高生が体験学習で訪れたり、旅行会社が商店街に立ち寄るツアーを企画したり、多くの縁のおかげで、短い期間で100万人ものお客様をお迎えできた」と話します。
ハマーレ歌津(歌津地区)も、復興支援で来ていた人たちが引き続き観光で訪れています。現在道路工事のためアクセスが分かりにくくなっていますが、まちづくり未来では看板を設置して商店街への誘導を図ろうと考えています。
海・山・里の豊かな自然に恵まれた南三陸町は、震災前から観光交流に力を入れていました。震災以降は、商店街が町のメイン施設として観光交流をけん引しています。人口減少が課題となっているなか、交流人口の拡大を担う商店街には大きな期待が寄せられています。
「さんさん商店街とハマーレ歌津の2カ所に寄っていただいたお客様に何か特典を差し上げるなど、色々企画を練っているところです」と菊地さん。ホームページやツイッター、会員向けメールマガジンなどを駆使し、情報を発信しています。またミニコンサートなど、来場者の持ち込み企画イベントが多いのも、2つの商店街の特徴です。それだけに菊地さんはじめ商店街の人たちには「支援していただいた方々やお客様との縁を大切にしていかなければならない」との思いが強くあります。
2、3年後にはさんさん商店街のそばに道の駅ができる予定です。旧防災庁舎を含む復興祈念公園の開園も控えています。「新しい施設ができることで人の流れも変わるでしょう。その時、さんさん商店街とハマーレ歌津はどういう役割を担うべきか、色々提案をしていこうと考えています」と菊地さんは言います。
震災時の困難を大勢の人々と縁をつなぐことで乗り越えてきた南三陸町の商店街。これからも縁を大切にしながら、変化する町と時代に対応していこうとしています。
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情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第61回はこちら
]]>石巻の水産業者たちが、震災後、石巻市水産復興会議という組織を立ち上げ、一丸となって、真っ先に行なったのは冷蔵庫にあった製品の廃棄処理でした。各社から人が出て"今日はこの会社の冷蔵庫、明日はこの会社の冷蔵庫"と振り分けし、3カ月かけて処理しました。
「海があり、船があれば漁はできる。仮設の魚市場が建てば水揚げができる。しかし加工場がなければ出荷はできない。そこで加工場の冷蔵庫に残っていた製品を全部捨て、受け入れ環境を整えることから始めたんです」。渡波水産加工業協同組合の木村安之専務理事は、当時をそう振り返ります。
また渡波水産加工業協同組合は、国の補助を受けてすぐに冷凍冷蔵施設と製氷施設を復旧させ、組合員(水産加工業者)が氷の手当てや冷凍冷蔵庫の保管を心配することなく事業再開に打ち込めるようにしました。
一方で壁にも突き当たりました。「消費者の方々に宮城の水産物をたくさん食べてもらわなければならないのに、原発事故による風評被害が起きて不安だった」と話します。さらに組合員の間では施設整備に伴う二重ローン問題も浮上し、不安は増大しました。
しかし震災から3年後に組合の青年部が活動を再開。交流する中で様々な意見が出てくるようになりました。木村さんはそこに希望を見ます。「水産加工は練り製品や塩蔵品など業種が多様で、他の工場の実情を知らない。だが青年部の活動で工場を行き来すれば作業内容なども自然とオープンになる。それが互いに刺激になる。議論が生まれ、行動に移していくこともできるようになった」。
同組合は食育などのPR活動に取り組む一方で、消費者の声を聴きに行くことを今後の課題にしています。
「消費者の方々が何を求めているかを知り、さらに交流を通して我々の製品の良さを伝えていきたい」と木村さん。「消費者の方々に石巻の水産加工品をたくさん食べていただくことが復興につながる。PR活動と交流に取り組み、組合員の経営に貢献していきます」。
同組合の組合員は現在36社。その思いを反映した運営と新たな試みとのバランスを取りながら、復興の道をたどっています。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第60回はこちら
]]>仙台湾を漁場に持つ亘理荒浜漁港には、ヒラメやカレイ、アナゴなど多種多様な魚介が水揚げされます。震災で漁船の数は半減しましたが、2011年12月には魚市場の修理がほぼ終わり、セリも再開しました。
しかし直後の2012年4月、東京電力福島第一原発事故による放射性物質の基準値変更で、ヒラメやカレイは出荷できなくなりました。「世界レベルよりずっと厳しい水準の基準値になり、検査結果が出る度、一喜一憂した」と、宮城県漁協仙南支所の橋元勇支所長は当時を振り返ります。
出荷規制は1年後に一部解除され、解除されたものから逐次、市場に出していきましたが、今度は風評被害に見舞われました。「買受人さんたちへの販売が振るわない時期もあったし、買受人さんや出荷者さんが取引先から産地証明を求められたりしたこともあった。実際に小売店さんなどと接する人たちは苦労したと思う」。
今は風評被害も収まり、亘理荒浜のブランド魚であるヒラメやカレイの多くが関東や近畿に出荷されていきます。2014年10月には漁港の目の前に産直の「鳥の海ふれあい市場」がオープンし、観光客や地元の人で賑わうようになりました。
その賑わいに一役買っているのが仙南支所婦人部の「浜っこかあちゃん市」です。もともと婦人部では安価な魚をさつま揚げなどに加工して販売していました。震災で人も施設も失いましたが、浜に活気を取り戻すため復活を果たしました。「住民はみな災害公営住宅や街に移転して、浜のコミュニティがバラバラになってしまった。だが浜っこかあちゃん市に来ると懐かしい顔に出会える。良い交流の場になっている」と橋元さんは喜びます。
震災後、新たに漁業を始めた人もいるという仙南支所。燃料や資材の高騰など漁業経営を取り巻く環境は厳しいのですが、橋元さんが「食べ物なら春はアサリ飯、夏はアナゴ飯、秋はハラコ飯、冬から早春にかけてはホッキ飯がある」と自慢するように、亘理荒浜には豊かな魚食文化があります。その豊かな海を生業の場に、浜の人たちの奮闘は続きます。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第59回はこちら
]]>建物を破壊しながら道路を遡る津波の映像を、津波復興祈念資料館「閖上の記憶」で見ました。7年前の3月11日、閖上中学校から撮影されたものです。壊れた家屋がぶつかり合う音や避難した人たちの悲鳴に胸が押しつぶされそうになります。
「閖上の記憶」はNPO法人地球のステージ(※)が運営している資料館です。命の大切さや震災体験を伝承していくため、語り部講話や閖上を案内する活動に取り組んでいます。
シアタールームでの津波映像の上映もその一部です。館内には、子どもたちが震災後、心のケアのために作ったジオラマや旧閖上中学校で実際に使われていたロッカー、時計などが展示されています。
館長の小齋正義さんは「映像や被災物を目の前にして説明すると、あの日に起きたことをより分かっていただけるのではないか」と話します。頂上の神社が流失した日和山や襲来した津波の高さに合わせて建てられた8.4メートルの慰霊碑も、津波の凄まじさを伝えるために案内します。
一方で名取市には津波の直撃を受けた建物がほとんど残っていません。「校舎も公民館もすべて解体された。遺構が無いなかで、見学に訪れた人たちにかつての街並みを想像してもらい、震災の教訓を伝えなければならない。その難しさを感じている」とも言います。
「閖上の記憶」には修学旅行の子どもたちがよく訪れます。次世代に震災の教訓を伝えていくことも課題なのですが、容易ではありません。「日和山には昭和8年の三陸地震で建立された"地震があったら津波の用心"の碑があったのに、地元住民でさえ知る人がいなかった」。小齋さんは、そこにもまた伝え続けることの難しさを見ています。「今は津波警報が出たらみんな逃げるでしょう。しかし100年後、200年後はどうか。後世の人に語り継ぐには、例えば碑を建てたら数年に一度刻んだ文字に墨入れをするなど、行事として残していくことが必要なのだと思います」。
語り伝える難しさに直面しながら、「閖上の記憶」は現在の閖上でできることを考え、実施しています。
※NPO法人地球のステージは心療内科医・桑山紀彦氏が代表を務める団体。2012年4月、津波の犠牲になった閖上中学校の生徒14名の慰霊碑を守る社務所として、また閖上の住民のコミュニティの場、命の大切さや震災を伝承していく場として「閖上の記憶」を設置した。
◎NPO法人地球のステージ公式HP こちら
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3.11を忘れない ~被災地の今~ 第58回はこちら
]]>災害援護資金(※)は、自治体が被災者に対し、生活を建て直すための資金を貸し付ける制度です。東日本大震災では、多くの被災者が制度を利用して生活再建を図りました。一方、昨年から償還(返済)が始まったことで様々な課題も浮上してきています。
石巻市は7年間で3,049世帯に約64億円の貸付を行ないました。1世帯当たり約210万円の貸付額です。返済は6年の猶予期間を過ぎたところから始まり、償還期間も借りた時から13年以内と決まっています。
石巻市生活再建支援課は、「納期を待たずに繰上償還をするなど、できるだけ早く返そうという動きがある一方で、"返せない"と言う方々も顕著化してきている」と話します。
"今の生活のなかで返していくのは難しい"といった相談が毎日寄せられることからも、まだ生活再建が終わっていない人や少ない収入で暮らさざるを得ない人が多数いることが分かります。
返済には一定額を年賦あるいは半年賦で納付する2つの方法が定められていますが、石巻市は経済的に困窮している利用者が一度に大金を用意するのは難しいだろうと考え、早い段階から月1回返済の少額償還を取り入れました。またコンビニ収納や口座振替など少しでも返しやすいように環境を整えています。
回収には相応のコストがかかります。また、貸したお金が返ってこない場合は、市が立て替えて県と国に返済をしなければなりません。「利用者の返済を免除するという方法もあるが、自治体としては借りた方と借りなかった方の間の公平性を保つことが重要。"減免になるならあの時借りておけばよかった"と不公平感を抱かれないように十分に注意したい」。
返済が困難な利用者への対応、長期にわたる回収の取り組み、行政としての公平性の確保。課題は山積ですが、市の生活再建支援課は、「災害援護資金を使い、やっとの思いで家を建てた方々が"お金を返せないから家を売る"とならないようにしたい。民間の貸付と違って福祉的な要素もある制度。最低限の生活だけは何とか維持できるような形で進めたい」と利用者に寄り添う姿勢を崩さずにいます。
※世帯主の負傷や住まい損壊で困窮した被災世帯に対し生活再建のために最大350万円を貸す制度。東日本大震災では無利子(保証人無しの場合は年1.5%)、償還期間13年(据置期間6年あるいは8年)等の特例が適用された。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第57回はこちら
]]>東松島ステッチガールズがデンマーク刺繍のクロスステッチの製造販売を始めて、ことしで4年になります。きっかけは震災後、刺繍の先生でもあるタレントの岡田美里さんの呼びかけで始まったワークショップです。手仕事は女性たちの収入になり、心の励みになりました。活動を支えていた東松島みらいとし機構は2014年、刺繍を仕事として続けていきたいという女性たちの賛同を得て事業化を図りました。現在、作り手は25人。東松島市はもちろん石巻市からも参加があります。
事業を続けるには経営の安定が求められます。不安はないかという問いに、事務局の東松島みらいとし機構の芳賀朋子さんは「今、まさに不安です」と答えます。「復興支援で買っていただく時期は終わりました。また刺繍は工業製品のように大量生産ができない。労働力と価格のバランスが取りにくい製品の価値を、分かった上で購入していただくことの難しさを実感しています」。
作り手さんたちは図案に添って一針一針丁寧に糸を刺し、商品を仕上げます。納期もあれば検品もあります。間違いがあれば修正をかけます。その労力に見合った収入を得られればいいのですが、なかなかそうはいきません。刺繍以外の収入源を確保するため、東松島ステッチガールズは昨年からオリジナル刺繍キットやビショップ(刺繍を施したワンピース)キットなど、商品の幅を広げました。作り手の伊藤早苗さんは、東松島ステッチガールズの魅力を「自分の作った物が売れていき、オリジナルの商品を開発できる喜びがあること」と話します。
東松島ステッチガールズの活動拠点は仮設商店街の一画にあります。「復興の進展に伴って、ここも撤去する予定です。今後集まる場所をどうするか、活動の形態をどうするか、これから考えていかなければなりません」(芳賀さん)。
東松島ステッチガールズには「東松島を刺繍のまちとして広めていく」という大きな夢があります。震災を契機に生まれた夢を震災の風化で終わらせないために、芳賀さんや伊藤さんたちはこれからも前向きな気持ちを分かち合いながら事業を進めていこうとしています。
東松島ステッチガールズ公式HPはこちら
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第56回はこちら
]]>7年前、被災地で起業による地域再生を目指した人たちがいます。農水産物の六次化、コミュニティ形成といったそれらの事業は、震災で浮彫りになった過疎化や高齢化、経済縮小など地域の喫緊の課題と深く関わるものばかりでした。
震災前から女川町のまちづくりに関わっていた湯浅輝樹さんは、被災後の女川の惨状を見て絶句しました。「働く場所を失った漁業者はこの先どうなるのだろう。何か、新たな仕事をつくり出さなければならないと思った」と当時をふり返ります。
4月、湯浅さんは仙台の木工クリエイターと一緒に、女川で「小さな復興プロジェクト」を立ち上げました。借りた倉庫に木工機械と原材料を持ち込んで地元の人を雇用し、魚の形の木工品「onagawa fish(女川フィッシュ)」を作って販売したのです。震災直後の起業は明るい話題としてメディアに採り上げられ、商品は飛ぶように売れました。作り手は被災した人たち。「買ってもらうと勇気が湧く」と喜び合ったそうです。
被災地で生まれた復興商品の多くはいま、"支援"から"ニーズ"へと局面が変わりつつあります。「一部の方々は現在も応援の気持ちで購入してくださっているが、一方でどんなに良いモノを作ってもニーズが無ければ商品は売れない。いまそこで苦労している」と話します。
人々から震災の記憶が薄れ、復興が進むにつれて、厳しい状況に直面することも増えました。「女川町のまちづくりに覚悟を持ってのぞんでいる」という湯浅さん。社名「株式会社onagawa factory(女川ファクトリー)」には、木工品・革製品・食品のものづくりで新しい女川の文化を発信していくとの思いが込められています。「厳しい状況は続くが、このまちに事業を残していくには、事業体としてもっと強くならなければならない」と決意を新たにしています。
株式会社onagawa factory(女川ファクトリー)公式HPはこちら
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第55回はこちら
]]>震災で、沿岸部は人口減少が加速しました。気仙沼市では震災前年より人口が8572人減少し(※)、少子化が一層深刻さを増しました。
「子どもの数が少ないので親同士がつながる機会も少ない。特に震災直後は母親が育児で孤立しがちだった」。そう話すのは、気仙沼市のNPO法人ピースジャムの代表、佐藤賢さんです。佐藤さんたちは震災発生翌日から乳幼児を持つ母親へ、ミルク・オムツなどを届ける活動を始めました。日々生きることで精一杯だった母親たちに変化が見えてきたのは、5月頃です。「"夫が震災で離職した。自分が働きたいが働ける所がない""子どもを預けないと働きに出られない""将来、この子をどうやって育てていったらいいのだろう"といったように、子育てと就業に関する悩みが多くなりました」。母親たちの不安は地域の育児コミュニティが十分に整っていないことの証でした。
佐藤さんたちは「お母さんたちが一緒に子育てしながら働くことができるような場所をつくろう」と考え、公民館の一室をキッズルームにして、地場の野菜・果物を原料にしたジャム製造・販売事業に乗り出しました。翌年にはロンドンからの支援で知った子育て万能布ベビーモスリンの縫製も開始。さらに2014年にはジャム製造室と縫製室、キッズルームを備えた新工房を建設し、子連れで働ける環境を充実させました。働き方はゆるやかで勤務シフトは子育ての状況に合わせて自分で決めます。
ピースジャムでは7年間で15人の赤ちゃん誕生を祝いました。母親たちは、安心して産むことができた理由を、"ピースジャムには先輩ママもいれば初産のママもいて互いに頼りあえる。子どもの成長を職場のみんなで見守っていけるから"と話すそうです。
「ピースジャムで働きたいと待機しているお母さんたちは20名ぐらいいるのですが、売上の規模が小さいので今は雇用を増やすことができません」と佐藤さんは言います。
復興支援を目的にした被災地の商品購入は年々少なくなっています。事業運営に厳しい状況が続くなか、佐藤さんは「ジャムもベビーモスリンもきちんと流通に乗せ、売上を増やしてお母さんたちの雇用拡大につなげたい」と意欲を見せます。
※2015年国勢調査
◎NPO法人ピースジャム公式HP こちら
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第54回はこちら
]]>「家賃を払いきれないようになったら、恥ずかしがらずに生活保護の手続きをした方がいいですよ」。石巻市のぞみ野第二町内会長の増田敬さんは、住民にそう話すことがあります。
復興公営住宅の入居者のうち政令月収(※1)8万円以下の低所得世帯は、国の「家賃低減事業」で家賃が低く抑えられています。5年間は少ない負担で住むことができますが、6年目から少しずつ上がり、11年目には一般の公営住宅と同じになります。
宮城県の復興公営住宅入居世帯のうち約7割は政令月収8万円以下の低所得世帯で、その多くは高齢者です。
「石巻市の場合、政令月収0円の人の家賃は当初6,700円で11年目以降は約3倍になります(※2)。今はまだ実感できませんが、収入の少ない高齢者が安心して入っていられる状況にありません」。
また、災害などで財産を失った時に適用される「雑損控除」も期限(東日本大震災は特例で5年)があります。雑損控除が無くなると政令月収が上がり、家賃にも影響します。
復興公営住宅は、被災した人たちにとってようやく落ち着いた"安住の地"です。のぞみ野第二町内会は生活困窮世帯の町内会費を免除したり、家賃の問題も気軽に相談できるよう顔なじみの関係を増やしたり、互いに支え合うコミュニティづくりに取り組んでいます。
「家賃を払えずに復興公営住宅を出ていく人が多くなれば、それだけで社会問題になるでしょう。特に高齢者は民間アパートに入るのが難しいので、ここを出たら本当に困ると思います。私たちも、家賃上昇に備えて生活設計を立てようと話し合っていますが、行政には低所得世帯も安心して住み続けられる施策を考えてほしいです」。(※3)
被災自治体は家賃低減事業の延長を国に要望していますが、復興庁は「家賃補助は自治体ごとに対応が可能」として予定通り10年で事業を終了する予定です。長い避難生活を経て復興公営住宅に入居した人たちが、再び"安住の地探し"をしなくて済むよう、早急に知恵を絞ることが求められています。
(※1)世帯全員の1年間の所得の合計から公営住宅法上の控除を行なった額を12カ月で割った収入。
(※2)2017年12月25日時点の試算。石巻市の復興公営住宅1LDKで11年目も政令月収0円の場合。
(※3)2018年1月、石巻市は独自に低減期間を20年まで延長する方針を固めました。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第53回はこちら
]]>2018年3月で震災発生から7年が経とうとしています。2年で供与が終わるはずの仮設住宅も、復興公営住宅などの建設工事の遅れから、7年、8年と入居期間が延びました。
長い避難生活は自ら望んだものではありません。名取市箱塚屋敷団地仮設住宅(以下、箱塚屋敷団地)の渡辺喜美子さんは、初対面の相手から「家賃が無料だからまだ仮設住宅にいるんだろう」と言われ、体調を壊すほどのショックを受けました。復興公営住宅の抽選に当たったのは最近です。早く引越ししたくても、建物が完成するまでは仮設住宅に住み続けざるを得ません。事情を知らない人からの心無い言葉もありましたが、「いまは7年間の荷物を整理しながら楽しく過ごしています」と笑顔を見せます。
同じ団地に住む渡部あき子さんも、復興公営住宅への入居を申し込みました。海の近くを嫌がる家族の心情を汲みつつも、「そこに行くしかない」と決断した胸中を明かします。津波で自宅を失った悔しさ、思い出のつまった家を愛おしむ気持ちが消えることはありませんが、まずは家族の将来を考えなければなりません。「家を建てるのはもう無理だと思って復興公営住宅に入ることを決めました」と淡々とした口調で話します。
箱塚屋敷団地は今年の春に閉鎖される予定です。入居者は市内2カ所に集約される仮設住宅に再び転居して、復興公営住宅などの完成を待ちます。
箱塚屋敷団地自治会長の阿部ひでさんは、「かつては180世帯が暮らしていましたが、いま居るのは27世帯。自治会長として最後まで残って、ここの閉鎖を見届けるつもりです」と言います。次の転居先もまた仮設住宅ですが、「移ってからゆっくり自宅の建築業者さんを決めようと思っている」と話してくれました。
現在、宮城県内の仮設住宅に住む人は9,750人(※)。ピーク時の11万3千人から大幅に減ったとは言え、大勢の人が仮の住まいで暮らしていることに変わりはありません。特にプレハブ仮設住宅は老朽化が激しく、健康への影響も心配されています。仮設住宅の供与終了まであと2年。それぞれの思いを胸に、恒久住宅への転居を待つ日々が続きます。
※仮設住宅の入居状況(宮城県・2017年10月31日現在)。
情報提供/みやぎ生協
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第52回はこちら
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