復興した馬術場からいつかオリンピック選手を 宮城県仙台市/海岸公園馬術場
仙台市は、津波の被害を受けて人が住めなくなった東部沿岸地域の一部を、スポーツやレクリエーションのできる「海岸公園」として再整備しました。
海岸公園馬術場(以下馬術場)はその一角に位置し、馬とのふれあいや乗馬の機会を市民に提供しています。
馬術場は2001年のみやぎ国体の際、競技会場として新設された場所で、乗馬ファンに長く親しまれてきました。しかし2011年3月11日の震災でその歩みは一旦途切れました。馬術場は津波の直撃を受け、55頭いた馬のうち19頭が犠牲になりました。
所長の木幡良彦さんは、水の引いた13日から他のスタッフとともに馬の捜索にあたりました。「キャンディという馬だけは津波の翌日、施設から少し離れた仙台東部道路で見つけ保護しました。36頭を救出しましたが大ケガをしている馬が多く、他の場所に移して治療しました」。
海岸公園の整備が進み、馬術場が元の場所で営業再開を果たしたのはそれから7年4ヶ月後の2018年7月のことです。オープニングイベントではオリンピック2大会出場の経験を持つ木幡さんが演技を披露した他、津波から生還したキャンディ号のひき馬体験が行なわれました。
中口和哉さん(営業部)は「馬術場が再開することで再び地域が盛り上がってくれたらいいなと思いながらオープンの準備を進めました」と振り返ります。再開の日は「沿岸部が懐かしくて」という元住民や「馬がどうなったか気になっていた」という人も訪れ、馬術場のスタッフを喜ばせました。
馬術場では乗馬はもちろん、馬のエサやりやひき馬など様々な体験ができます。なかには「ただ見ているだけでもいい」と無心に馬を眺めている人もいるそうです。
「復興が進む沿岸部の風景に心が追い付かないという人も多いでしょう。馬とのふれあいで少しでも前向きな気持ちになっていただければと思っています」(中口さん)。
現在は、馬の生態学習や隣接する冒険広場との連携によるサイクリングロードひき馬体験など子どもたち向けの取り組みも積極的に行なっています。
復興のシンボルともなっている海岸公園に人が集い、馬術場からまた乗馬のオリンピック選手が出る...。そんな夢を語り合いながら木幡さんも中口さんも乗馬の楽しさを広く市民に伝えようと頑張っています。
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
スポーツボランティアの"人と経験"をつないでいく 宮城県仙台市/市民スポーツボランティアSV2004
「市民スポーツボランティアSV2004」(以下SV2004)は、16年前、仙台・宮城で開催されるスポーツをサポートしようと地域の人々が集まって結成した団体です。楽天イーグルスの試合や仙台国際ハーフマラソン大会など、様々なスポーツイベントにボランティアとして関わっています。
代表理事の泉田和雄さんは、発足以来、仲間とともにスポーツボランティアの輪を広げ、学び合う活動を続けてきました。その活動が一旦ストップしたのが東日本大震災でした。
「すべてのスポーツが休止し、SV2004の仲間も多くは被災者として自分の生活再建に頑張るしかありませんでした」。活動に戻るきっかけとなったのは「4月29日復興デー」でした。東北新幹線と仙台市地下鉄再開に合わせ、ベガルタ仙台と楽天イーグルスのホーム開幕戦が行なわれたのです。
さらに5月、SV2004は緊急の東北スポーツボランティアサミットを開催しました。「スポーツボランティアは震災では無力ですが、スポーツには人を笑顔にし、元気にする力があります」。そこで「スポーツで笑顔を未来に」という宣言を出し、特に子どもたちのために何ができるかを話し合いました。
7月、楽天イーグルスの球場でプロ野球のオールスターゲームが開催され、被災地から3,000人を超える子どもたちが招待されました。SV2004などのメンバーは全国から駆け付けた100人以上のボランティアとともに招待された子どもたちの対応をしました。
昨年は岩手県釜石市でラグビーワールドカップが実施され、泉田さんも地元の人たちの活動を支援するため何度か足を運びました。「釜石の方々は"震災の後、ワールドカップという目標が先にある、ラグビーを見に世界からお客さんが来ると思って、前を向くことができた"と言っていました。大会成功のために動いた釜石の方々の"人と経験"はレガシー(遺産)となって今後につながっていくでしょう。それはどこの地域も同じです」。
今年はオリンピック・パラリンピックイヤーです。宮城でも春に聖火リレー、夏には宮城スタジアムでサッカー予選が行なわれます。SV2004の会員もボランティアとして参加する予定です。
「これを機にスポーツボランティアを経験する方が増えるでしょう。そうした方々が、オリンピック・パラリンピックが終わっても地域のスポーツのために活動をしていけるような流れをつくれたら嬉しいですね」。
市民スポーツボランティアSV2004のHPはこちら
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第78回はこちら
]]>サッカーで女川町の名前を全国に広めたい 宮城県女川町/コバルトーレ女川
コバルトーレ女川は、現在、東北社会人サッカーリーグ1部で戦っているサッカーチームです。2006年、スポーツを中心にまちを活性化しようという「女川スポーツコミュニティ構想」のもと、アマチュアのクラブチームとして発足し、数々の試合で地元を元気づけてきました。また、子どもサッカー教室の開催などを通じて地元の人々とのきずなを深めてきました。チームのコンセプトは"地域貢献"です。
チームの活動は2011年のリーグ開幕直前に発生した東日本大震災で、休止を余儀なくされました。阿部裕二監督は「チームの本質は何か、自分たちを見つめ直した」と当時を振り返ります。そして「できることをやろう」と様々な支援活動に取り組みます。5月には子どもたちと一緒にサッカーを始めました。「グランドに通える子たちを集めて、教えるというよりもただ遊んでいました」。また放課後、スクールバスを待つ子どもたちと校庭でボールを蹴って遊ぶこともありました。
9月にはトップチームの選手が練習を再開し、2012年4月、再びリーグ戦のピッチに立ちました。2018年には念願のJFL(※)昇格を果たしましたが、2019年は再びリーグ1部で戦うことになりました。
試合は遠方で開催することも多く、いつも地元の応援があるとは限りません。しかし阿部監督は「まちを歩いていれば、今週は試合があるの?この間は勝った?と声をかけてもらえる。試合会場には来られなくても応援してくれているというのをヒシヒシと感じる」と話します。
また選手は皆、みやぎ生協をはじめ女川や石巻などの地元企業で働き、就業外の時間を使ってサッカーの練習に励んでいます。「働いて収入を得てサッカーができる環境をつくってくださっている。それも応援の一つだと思っています」。
阿部監督の願いは「サッカーで女川の名前を全国に広めること」です。そのためにはリーグ1部を勝ち抜いてJFLに昇格しなければなりません。2021年2月には女川町に天然芝のグランドができる予定です。「JFLに上がって女川町のグランドで試合ができれば、これまで以上に多くのサポーターが来町してくれる。ここでサッカーを観戦し、お酒を酌み交わし、美味しいものを食べてくれる。それが復興の後押しにもなると思っています」。
※JFL/日本フットボールリーグ。アマチュアリーグ最上位に位置する組織。
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情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第77回はこちら
]]>勝って「石巻ここにあり」を全国にアピール宮城県石巻市/日本製紙石巻硬式野球部
日本製紙石巻硬式野球部(以下、日本製紙野球部)は創部から34年、全国大会で8強入りの実績を持つ社会人野球チームです。
2011年3月11日、日本製紙野球部は試合のため東京にいました。数日後、石巻に戻ってきた部員たちが目にしたのは津波で壊滅した工場と町の姿でした。前田直樹さん(現監督)は「工場のある辺り、町が一つ無くなっていた」と当時の惨状を語ります。
野球部は活動休止。工場のがれき撤去に従事するかたわら、安否が分からない同僚を探したり、炊き出しの手伝いに行ったりしました。前田さんたちは、そこで町の人から「工場、大丈夫か?」「野球部、頑張れよ」と声を掛けられます。誰もが自分の生活でいっぱいの状況のなか、日本製紙と野球部を心配してくれたのです。「当時は野球を続けられるかどうかさえ分からない時期でしたが、ありがとうございます、頑張りますと答えていました」。
野球部の存続が決まり、練習を再開したのは5月に入ってからでした。石巻のグランドが被災していたため旭川工場に練習の場を移し、「復興のシンボルになる」をコンセプトに再スタートを切りました。
そして震災発生から2年後の2013年、都市対抗野球の東北予選を勝ち抜いた日本製紙野球部は東京ドームで開催された全国大会に出場し、ベスト8の好成績をおさめます。
大会には石巻から約8,000人の応援団が駆けつけ、大漁旗を振って"地元石巻の野球チーム"を応援しました。「皆さん、こんなにも楽しみにしてくれていたんだと嬉しくなりました」と前田さんが話すように、それはあらためて地元の期待の大きさを感じる出来事でした。
日本製紙野球部は、シーズンオフには宮城や福島の小・中・高校生を対象に野球教室を開催し、野球の技術や楽しさを伝えます。なかには高校卒業後、日本製紙に入社した選手もいます。
シーズンオフはメンバーが入れ替わる時期でもあります。「震災を経験している選手も少なくなりました」。前田さんたちは、新しい選手が入ってきた時、必ず震災の話をするそうです。「我々は今、こういう場所で野球をやっている。だからこそ、試合で勝って"石巻ここにあり"を全国にアピールしたいと」。
被災地石巻が復興を遂げ、「野球の石巻」として名をはせる。そんな願いを胸に日本製紙野球部は2020年、再び全国大会出場を目指します。
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第76回はこちら
]]>復活した閖上の魅力を発信していきたい宮城県名取市/かわまちてらす閖上
名取市内でも津波被害の大きかった閖上(ゆりあげ)地区に、2019年4月、観光と交流の商業施設「かわまちてらす閖上」(以下、かわまちてらす)がオープンしました。名取川の堤防沿いにレストランやカフェ、海産物店などが建ち並び、食はもちろん散歩やツーリングなどアクティビティも楽しめる人気スポットとなっています。
また周辺では宅地開発が進み、地元の人たちの新たな交流拠点としても注目されています。
(株)かわまちてらす閖上の菊地祥弘さんは、「名取川堤防沿いのエリアは元々商店街があったところ。地元の人たちにとっては昔から身近な場所だった」と言います。
震災で大きく傷ついた閖上ですが、地元の商業者たちは「閖上にもう一度かつての賑わいを取り戻したい」と立ち上がり、名取川の景観を活かしてかわまちてらすをつくりました。
かわまちてらすをきっかけにまちづくりが前進すれば、定住者の増加につながるとの期待もあります。
「ここは閖上の復活の象徴。地域の期待の大きさをひしひしと感じている」と菊地さん。この夏、広場をステージにして開催したカラオケ大会には大勢の地元住民が参加し、その場で次の開催を待つ声があがるほど盛り上がったそうです。
オープンから約6ヶ月。かわまちてらすは平日にも関わらず、食事や買い物を楽しんだり、堤防沿いを散策したりする大勢の人で賑わっています。「土日の来客はさらに多い。芋煮やイルミネーション、お花見など様々なイベントを実施し、賑わいを継続していきたい」。
かわまちてらすはロケーションの良さでも人を惹きつけています。「この風景、素晴らしいでしょ」と菊地さんの指さす方を見れば、海と空に向かってゆったりと流れる名取川が目に入ります。風景を楽しみながら食事や買い物ができ、仙台の都心部からも近く気軽に足を運ぶことができます。
「震災を乗り越えて復活した閖上を見にきてほしい。そのためにこれからも閖上の魅力をかわまちてらすから発信していきたい」。
歩みは始まったばかり。閖上の賑わいがずっと続くよう、菊地さんたちは様々なもてなしのアイディアを繰り出しながら、お客さまを迎えています。
◎かわまちてらす閖上はこちら
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第75回はこちら
]]>ゆるやかなコミュニティが息づくオープンな集会所宮城県亘理町/西木倉災害公営住宅ふれあい喫茶
亘理町の西木倉(にしきぐら)災害公営住宅は、阿武隈川と鳥の海に挟まれた荒浜地区にあります。3棟の集合住宅の周囲には住宅や商店がゆったりと建ち並び、のどかな風景が広がっています。
牧野かつ江さんは毎週月曜から金曜の午前中、地域の人が気軽に集まれるように集会所のカギを開け、お茶を準備して待っています。自治会などから託された役目があるわけではなく、まったくのボランティアです。
「何をするわけでもないの。みんなでお喋りするだけ」。年に1回ずつ芋煮会や夏祭りなど交流の場はありますが、「普段からみんなと仲良くやっていきたい。自分にとっても良いことだから」と牧野さんは言います。
みやぎ生協のふれあい喫茶(※)も、その一つです。きっかけは亘理店でふれあい喫茶を体験し、当時住んでいた仮設住宅での開催を要望したことでした。生協との付き合いは公営住宅に入居してからも続き、ふれあい喫茶を楽しみに荒浜地区まで足を運ぶ参加者がいるほどの人気行事になっています。
公営住宅のなかには集会所の運営管理が負担になって、あまり利用されていないケースもあります。仮設住宅では常に開放されていた集会所が、公営住宅では常にカギのかかった状態になることを憂慮する声もありました。そうしたなか、集会所をほぼ毎日開放して人の集まる機会を設けている牧野さんの試みは、とても貴重であることが分かります。
佐藤美智子さんは以前住んでいた場所に自宅を再建しました。ふれあい喫茶に参加したきっかけを「荒浜に戻ったけれど昔の行政区も、昔いたご近所さんもいなくなった。地域になかなかなじめないで、どこを頼りにしていいか分からなかった。そんな時、生協で喫茶をしているよと聞いて来てみたんです」と話してくれました。
西木倉災害公営住宅でのふれあい喫茶、毎週月曜から金曜までの気軽な集まり、どちらも入居者だけでなく近隣の住民や少し離れた地域からの参加があります。「外にでて人と話をしよう」「自分の興味のあることに参加してみよう」が動機です。
震災前の集落をベースにしたコミュニティとは異なる、人と人のつながりから生まれるコミュニティがそこにはあります。行政区など場所のコミュニティが固まるにはまだ時間がかかりますが、人の"気持ち"をつなぐゆるやかなコミュニティはしっかりと広がり、浸透しています。
※被災された方を対象に、仮設住宅や災害公営住宅の集会所、店舗や組合員集会所などで、一緒にお茶を飲みながらおしゃべりを楽しむ活動
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
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]]>「帰ってきて良かったと思えるコミュニティづくり」福島県広野町/広野町社会福祉協議会
「仮設住宅にいた頃の方が良かった」。地域住民が集う「ふるさとサロン」で根本さと子さん(広野町社会福祉協議会、以下社協)は、参加者がつぶやくのを耳にしました。広野町の避難指示が解除になり、町民が徐々に戻ってき始めた頃のことです。
「自分は帰ってきても隣の家はまだ戻ってこない。お茶飲みする場も近くにない。仮設住宅なら集会所がすぐそばにあった。だから仮設住宅の方が良かった、ということなのです」と根本さんは住民の複雑な胸のうちを語ります。
ふるさとサロンは「帰ってきて良かったと思えるコミュニティづくり」を目標に、社協が月1回開催しているイベントです。参加者の多くは高齢者で、陶芸や園芸、畑づくりなど多彩なプログラムが特徴です。社協のスタッフが運転するバスで、桜や紅葉を見にいくこともあります。
サロンの回を重ねることで、仮設住宅を懐かしむ声は次第に減り、「ここに来て友だちに会えるのが嬉しい」「戻ってきて良かった」という声が増えました。
一方、同社協の佐野光男さんは「高齢世帯だけ町に戻り、子ども世帯は避難先に留まったままの家が多い」と、避難を機に家族の形が変わったことを指摘します。高齢者の中には避難先のいわき市でかかった病院に今も通院している人がいます。「だが自分で車を運転して行ける人は少ない。昔なら同居していた家族の誰かが送ってくれたが、今はそれができない」(佐野さん)などの問題も出ています。
町内には新しいオフィスビルやスーパーができていますが、病院や交通網など生活インフラの整備はまだこれからです。「復興しているという実感は薄い」と根本さんが言うように、町が今よりずっと住みやすくなるにはさらに時間がかかるのでしょう。
「帰ってきて良かったと思えるコミュニティ」を住民自身の手で築いていくのも、これからです。「私たちがいなくても活動できるよう、担い手を育てていければと思っています」。今はその助走期間。導きながら支えながらの取り組みが今日も続いています。
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
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]]>地域課題を解決できる自治組織をつくる宮城県亘理郡山元復興ステーション
山元町は町域の約4割が津波で浸水しました。被災した住民の多くは、内陸に移転したJR常磐線が通るつばめの杜地区などの新市街地に集団移転し、新たなコミュニティを形成しました。沿岸部に残って暮らすことを選んだ住民たちも、地域コミュニティの再構築に向けて歩み始めました。
山元復興ステーションは、山元町の委託を受けたNPO法人神戸まちづくり研究所が運営する団体です。2012年11月の発足以来、住民に寄り添いながらコミュニティづくりの支援を続けています。
「当初は逆風のなかでの活動でした」とステーションを率いる橋本大樹さんは言います。
行政とのコーディネーターとして参加した会議では"どうせ行政の代弁者だろう"と不信感を持たれ、不平や不満を聞くことから始めました。
信頼に変わってきたのは、ステーションの支援で住民自身が地域内の課題に取り組み、"自分たちもやればできる"という成功体験を積むようになってからです。
集団移転地に自治会ができた時、橋本さんは住民に「将来的には皆さんが自分たちで地域の問題・課題を解決できるようにならなければならない」と伝えました。
一つは人口減少が急激に進んだため。もう一つは、住民と行政の"協働"でまちづくりを進めてほしいとの思いがあったからです。
沿岸部の中浜地区は震災を境に世帯数が315世帯から26世帯に減りました。笠野地区も磯地区も世帯数は震災前より激減しました。
人口が減れば当然行政の職員も減ります。「すると、例えば草刈など今まで行政が担っていたことを地域が行なう時代になる。そうなった時に受け入れ態勢ができている自治会とそうでない自治会では、苦労の程度に差が出ます」。
少ない住民で地域をどう維持していくか...。「何から何まで行政に要望するのではなく、普段から、この課題は行政に任せる、この事業は行政と一緒に実施する、これは自分たちが担うという分別をしておくことが大切です」。
橋本さんは「協働とは、住民と行政が対等な立場で意見を言い合えること」と言います。住民が自分たちで地域の課題を解決しようとする気運も、そうした関係のなかから生まれるのでしょう。
震災から8年半。コミュニティ再生はこれからが正念場です。
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
「NPO法人神戸まちづくり研究所」についてはこちら
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第72回はこちら
]]>「自分たちの町のために何かしなきゃ」集う機会がもたらした地域力 宮城県南三陸町社会福祉協議会「結の里」
南三陸町「結(ゆい)の里」は、震災後、ボランティアの活動拠点となったベイサイドアリーナの向かいにあります。木造平屋の建物にデイサービス施設と地域交流スペースがあり、隣の災害公営住宅とはウッドデッキでつながっています。地域の人たちが一緒に昼食をつくったり、赤ちゃんを連れたお母さんたちが集まってお喋りしたり、介護サービスの拠点であると同時に、すべての世代が気軽に集うことのできる場所になっています。
結の里の特徴は、この"集う機会"が地域住民と社会福祉協議会(以下社協)のコラボレーションで幾通りも用意されていることです。
「この場所で何をしていくか。2018年4月の開所までの1年間、話し合いを重ねました。住民は、実行委員として施設運営に関わります。自分たちも運営を担う一人であることが分かるにつれて、色々なアイディアを提案してくるようになりました」と、髙橋吏佳さん(南三陸町社会福祉協議会結の里管理責任)は振り返ります。"行政や社協がやってくれる"のではなく、"自分たちはこうしたい、だから社協さん手伝って"と意識が変わってきたのだそうです。
そうして生まれたのが、月1回、みんなで料理をつくって一緒に食べる「みんな食堂」や住民がボランティアで運営する「えんがわカフェ」、映画鑑賞会や「走らないミニ運動会」などのイベントです。
2019年7月で開所から1年3ヶ月、"集う機会"はたくさんの笑顔をもたらすとともに、"地域力"を高めたと髙橋さんは言います。「例えばみんな食堂に来られない人のために宅配はどうだろうという意見が出たり、ワークショップや研修では思ったことをどんどん発言したり。自分たちの町のために何かしなきゃという思いが強くなりました」。
イベントを主催するのはそれぞれ実行委員のグループです。社協は予算の管理を手伝ったり、他の団体から申し込まれたイベントとの調整を図ったりします。
「住民も役割を持ち、楽しみながらやってほしい。震災から、みんなで家族のようにして生きてきたんだから、これからも楽しんでやっていこう」。常々そう話しているという髙橋さん。「だから結の里の事務所も、社協のオフィスというより住民の茶の間という感じ」と和やかに笑います。
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
「南三陸町社会福祉協議会結の里について」はこちら
3.11を忘れない ~被災地の今~ 第71回はこちら
]]>ついの住処、仮の住まい。
どの被災者にも地域で安心して生活できる環境を。
福島県南相馬市社会福祉協議会
「様子を伺いに訪問したら、"10日ぶりに人と喋った"という方がいました」。
黒木洋子さん(南相馬市社会福祉協議会生活支援相談室長)は、孤立しがちな被災者の現状について、そう語ります。
「南相馬市内の復興公営住宅はどこもまだ自治会がありません。住民同士の自発的なコミュニティ形成もなかなか進まなくて...」。
県営の復興公営住宅には、原発事故で南相馬市に避難してきた浪江町や双葉町など他町村の人たちが多く入居しています。
故郷のほとんどが居住制限区域や帰還困難区域になっていることから、南相馬市をついの住処と決めて家を建てた人がいる一方で、「ここは仮の住まい。いつかは故郷に戻る」と思っている人もいます。
避難して8年が経ちますが、暮らしはまだ流動的で、新たなコミュニティをつくる雰囲気も環境も整ってないのが現実です。
「自治会がないと困るのは被災者です。避難先で話し相手がなく孤立する。どこに誰が住んでいるか把握できず、ニーズが埋もれてしまう。私たちの被災者支援活動も復興が進むにつれて形を変えていきます。"住民だけでは何もできない"とならないよう、自治会立ち上げを支援し、様々なイベントを通して、コミュニティを育んでいきたい」。
被災者が地域で安心して生活できるように支援するのが、黒木さんたち生活相談支援室の仕事です。
「世帯分離や地域分断から来る寂しさ、外出機会の減少、高齢者の身体機能の低下。支えなければならないことがたくさんあります」。
なかでも黒木さんたちが今、気になっているのが、生活困窮に陥りそうな人たちの存在です。
「50代、60代のちょうど働き盛りの方々。勤務先が原発事故で移転・撤退し、失業。新たな職を得ても頭と体が追い付かず、心が折れてまた働き口を失う。賠償金も底を突く。免除されていた家賃や税金も払うようになる。そうなったらどうやって生活していくのか。注意して見守っていかなければと思っています」。
「原発事故が課題を深く複雑なものにしている」と黒木さん。そうした背景を踏まえながら「地域ごとの課題をどう解決していくかが、私たちの次の課題」と、前向きな笑顔を見せます。
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
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]]>「多様なチャンネルを活用して、居場所を見つけられる街に」
宮城県東松島市野蒜(のびる)まちづくり協議会
野蒜駅の改札を出ると、広場の向こうに野蒜ケ丘の新しい街並みが広がっています。
津波で甚大な被害をうけた東松島市野蒜地区では、多くの世帯が近くの山林を開いて造った高台へ集団移転しました。2017年10月にはまちびらきが行なわれています。
野蒜まちづくり協議会(以下まち協)は、住民参加のまちづくりを目指し、野蒜ケ丘の3自治会や東名・大塚など旧市街地の5自治会と協力しながら、様々な事業に取り組んでいます。
移転にあたって課題になったのがコミュニティ形成でした。まち協会長の菅原節郎さんは、「野蒜ケ丘は震災前のコミュニティを活かす形で移転したことや何度も話し合いを重ねたことで、"この街でこの人たちと暮らしていくんだ"という気持ちが醸成された。移転後も自治会ごとにイベントを開催し、それがコミュニティの活性化に役立っている」と話します。
最近は野蒜ケ丘の分譲地を買って移り住む若い世帯も増えてきました。一方、災害公営住宅や旧市街地を中心に高齢化も進んでいます。
まち協副会長の山縣嘉恵さんは「自治会のイベントに参加できない人もいる。そうした人々を含め、住民の地域での居場所づくりがまち協の役目になる」と言います。
同じくまち協副会長の佐賀剛さんも「地域全体のあり方を考え、若い世代が住みやすい街づくりや人材育成が大切になってくる」とこれからを見すえます。
まち協では、昨年度開催した地域づくり勉強会や若い母親のためのママカフェを、今後も行う予定です。
「ママカフェは市民センターの交流スペースを活用し、お母さんたちが子どもを遊ばせながらお茶を飲んだり、保健師さんや保育士さんに子育てについて相談したりする場」と山縣さん。地域づくり勉強会も「野蒜の街を知り、地域を担っていく人材を育てていくためのもの。今後も外部から講師を呼ぶなどして学ぶ機会をつくりたい」(佐賀さん)と積極的です。
菅原さんは「すべての住民が自分の役割や出番があるような街にしたい」との思いを抱いています。「そのためには人と人のつながりが数多くあった方がいい。自治会ごとの交流だけでなく、ママカフェや勉強会、趣味のグループなど様々なチャンネルを活用して、自分の居場所を見つけてほしい」。
もともと住民同士の付き合いが活発だった野蒜地区には、コミュニティの芯となる助け合いの習慣が今も根付いています。
まち協の住民参加のまちづくりは、そうした故郷の財産を活かしながら、今後も進められていきます。
情報提供/みやぎ生協・コープふくしま
野蒜まちづくり協議会についてはこちら
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]]>「南三陸町の漁業者の思い、町の魅力を伝えたい」
たみこの海パック
「津波を目の当たりにして、もう養殖はやれないと思った」と阿部民子さんは言います。しかし家業である漁業から離れるわけにはいきません。「だったら私は自分にできることで自分の居場所をつくろう」。そう考えて阿部さんは2012年10月、南三陸町の海産物詰合せを販売する「たみこの海パック」を立ち上げました。
「南三陸の海産物をお土産に買って帰りたい」というボランティアの声をヒントに、複数の水産加工場から商品を仕入れ、独自の詰合せセットを考案。ホームページ「たみこの海パック」を開設し、オンラインストアで通信販売を始めました。
さらに女性が短時間でもイキイキと働ける場所をつくりたいと願い、子育て中の女性を一人雇いました。女性は海藻類の袋詰めを、阿部さんは販売に奔走しました。「ボランティアさんに直接、買ってくださいとお願いし、近くの道の駅やスーパーに扱ってほしいと頼みに行きました」。
販路が広がるにつれて売上も増え、翌年秋には黒字を計上できるようになりました。「震災をきっかけに事業を始めた私の生き方を理解し、応援してくれている人たちがたみこの海パックを育ててくれました。人に恵まれたと思います」。
阿部さんには「たみこの海パック」を通じて南三陸町の漁業者の取り組みや町の魅力を伝えていきたいという思いがあります。
そのため商品に浜の様子や復興の歩みを伝える「たみこの四季だより」を同封したり、ワークショップで来町した人たちに南三陸町の漁業の特徴などを描いた紙芝居を披露したりしています。
「震災直後、漁業者は収入減を覚悟の上でカキの養殖いかだを3分の1以下に減らし、環境に配慮した養殖に切り替えました。みんな不安と葛藤のなかでスタートしたのです」。おかげで日本で初めて国際認証ASC(※)を取得できたこと、栄養が行き届いてより美味しいカキが獲れるようになったこと、海藻は漁業権を持った、主に女性たちが岩場を歩いて採っていることなどなど。
「売りたい伝えたい相手は県外・関東の人たち」と阿部さんは言います。それは大きな消費地に住む人たちにこそ生産地である南三陸町の海産物を味わってほしいから、町に足を運んでほしいからだと。
「課題は"伝えること"ですね。インスタやフェイスブックなどSNSを使って発信を続けていきます」と笑顔を見せます。
※ASC認証/養殖水産物に対するエコラベル。環境に負担をかけず地域社会に配慮して操業している養殖業に対する国際的な認証制度。
たみこの海パックのホームページはこちら
情報提供/みやぎ生協
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]]>「女川スペインタイルを地域の産業・文化として根付かせたい」
NPO法人みなとまちセラミカ工房
女川スペインタイルは、震災後に誕生した女川独自の工芸品です。きっかけは、町の復興を考える人たちの中から出た「スペインタイルを女川の新しいお土産にしよう」というアイディアでした。協力を求められたのが、震災前、女川で陶芸教室をやっていた阿部鳴美さんです。阿部さんは東京の教室へ通ってタイルづくりを学びました。スペインにも足を運び、何十年経っても色あせないタイルに魅了されました。
2013年6月、阿部さんは陶芸の仲間とともに工房をオープンします。事業化の不安はありましたが、仲間や地元の人たちの声が励みになりました。
「当時はがれきが片付いた直後で辺り一面真っ茶色でした。彩り豊かなタイルに"被災地でこんな綺麗な色を見られるなんて!"と感動したり、女川ならではの大漁旗や獅子舞の絵付けをしたタイルを"懐かしいねー""元気が出る"と喜ぶ地元の方がいたりして、勇気づけられました」。
阿部さんたちはクオリティの高いタイルづくりに打ち込む一方、2014年から、お客さまの要望に応えて「メモリアル体験」を始めました。絵付けワークショップで2枚のタイルを作り、1枚は自分用、もう1枚は町に残していくプロジェクトです。お客さまが町に残したタイルは、商業施設の壁面や階段などのスペースに貼られ、いつでも見られるようになっています。「自分の作ったタイルが町に残っていれば、女川にまた行ってみようと思っていただけるかも知れない。全国の人と女川をつなぐ、今と未来をつなぐ役割をタイルが果たしてくれればいいなと思っています」。
女川駅前の商店街シーパルピアにある店舗には、お土産品として人気のコースターやアロマタイル、受注制作の表札・メモリアルプレートなどのタイルが陳列されています。町にはお洒落なタイルの看板を掲げた商店があります。再建した家にもタイルの表札が使われています。タイルの壁画が飾られた災害公営住宅もあります。復興でどんどん生まれ変わっていく町と歩みをともにして、タイルも増えてきたのです。
「事業を長く継続し、女川スペインタイルを女川の産業として、地域の文化として、根付かせていきたい」と阿部さんは夢を語ります。スペインのように何百年も伝統の産業・文化として息づくタイルづくりを目指し、阿部さんたちは今その芽を大切に育てています。
※NPO法人みなとまちセラミカ工房のホームページはこちら
情報提供/みやぎ生協
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]]>「希少なパステル染めを、気仙沼の人の手で育てていきたい」
株式会社インディゴ気仙沼
インディゴ気仙沼は、天然インド藍を使った染色サービスとオリジナル商品を制作販売する会社です。始まりは、2015年に代表の藤村さやかさんが子育てサークルの友人2人と「子連れで働ける職場を」と立ち上げた染色工房でした。「インディゴ(※)は気仙沼の海の青をイメージさせる。染色の作業なら乳飲み子をおんぶし、空いた手でできる。そう話し合ってスタートしたんです」。
しかし染色は全員未経験。先達に教えを請いながら、自分たちが作りたい染めを探す毎日。最初は徳島産の藍に人工的な触媒を加える"化学建て"を試みましたが、1年後にインド藍の"天然建て"に切り替えます。その間もストールやTシャツを染めて販売し、徐々に従業員に給料を出せるようになりました。
さらに「子どもに着せて安心な商品を作ろう。そのためには自分たちの目で確認した原材料を使いたい」と、日本で藍染めに主に使われるタデ藍の栽培にも取り組みます。しかし夏の短い気仙沼では思うように育たず、藤村さんたちは寒い地方でも育つインディゴ植物を探します。そうして、気仙沼の気候に適した作物として着目したのが、現在、フランスのトゥールーズ付近の狭い範囲のみで生産されているパステルでした。
藤村さんたちはさっそく種を取り寄せて植え、発芽、葉の収穫と一つずつ作業を進めながら、パステルが気仙沼の気候に合っていることを確かめました。「染めるなら気仙沼で育てた植物で染めたい」と考えての挑戦でした。
一方でパステル染めによる商品の販売先も確保しました。「いま、収益の大部分はインド藍の事業によるものですが、これをパステルの事業で成り立つようにしたいし、海外にも販路を開きたい」と意欲を見せます。
3人で始めた工房は現在、パステル栽培を担う農家を含め9人に増えました。「自分の事業だと思ったことはない。気仙沼のパステル染めを、ワインのように気仙沼の風土を体現した商品に育て、いずれは地場産業としてまちの皆さまにお渡ししていければ」。
震災発生から8年。「新しい建物が増え、まちに色彩が戻ってきた」と藤村さんは喜びます。インディゴ気仙沼が染める青や水色も気仙沼のまちを彩る色の一つ。その魅力が国内外に広まることを願って、インディゴ気仙沼の挑戦は続きます。
※インディゴ/鮮やかな藍色を作り出す染料
●株式会社インディゴ気仙沼のホームページはこちら
情報提供/みやぎ生協
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]]>「亘理町の文化から生まれた手作り雑貨。ビジネスとして長く続けていきたい」株式会社 WATALIS
亘理町は町面積の約半分が浸水し、8万人が避難しました。震災から数カ月後、引地恵さんは町内でコミュニティづくりのためのワークショップを始めました。
亘理町には着物の残り布でつくった巾着袋にお米などを入れて感謝を伝える返礼の文化があります。引地さんは、その巾着袋を地元の女性たちの手で再現し、着物リメイク雑貨として販売していこうと考えました。ワークショップに集まった地元の女性たちとともに和裁の先生の指導を受けながら、手作りの巾着袋を「商品」として送り出せるよう、腕を磨きました。
2015年、引地さんは大きな決断をします。着物リメイク雑貨の製造販売をコミュニティ活動から切り離し、新たにつくった(株)WATALISへ移したのです。販売したお金で材料を仕入れ、作り手に製作費を支払い、経費をまかなう―。そんな当たり前の「ビジネス」として事業を続けるためでした。
「コミュニティ活動と並行して取り組んでいたので、着物リメイク雑貨の製造販売も、震災後の一時的な仕事づくりと見られていました。商談に赴くと、"きちんと供給できるのか""納期は守れるのか"と信用を得る難しさに直面しました。"震災から時間が経っているので、もう扱わない"と言われたこともありました」。
"素人に会社経営は無理だ"と危ぶむ声もありましたが、引地さんはビジネスコンペに応募して受賞したり、ウェブ上に販売サイトを開設したりするなど積極的に道を拓きました。作り手さんに縫製を仕事として続けるかどうかを確認し、一層クォリティの向上に努めました。
(株)WATALISの事業は地元の友人知人や震災後につながった人々の応援を受け、着実に歩みを進めてきました。従業員は現在、作り手を含めて12人。アクセサリーや小物雑貨など商品の種類も増えました。WATALISは亘理町のワタリとお守りの意味のTALISMAN(タリスマン)を組み合わせた造語です。「商品を手に取っていただくことで亘理町に関心を持っていただければ嬉しいですね」。
故郷で生まれ故郷を伝える地場産品は、地域経済の担い手になります。「長く続けることで地元に少しでもお金が入り、活気が生まれる。そういう道を目指していきたい」と引地さんは願っています。
※株式会社WATALISのホームページはこちら
情報提供/みやぎ生協
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